01 “はるん”の裏話  
02 メールより

03 最後に

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01 “はるん”の裏話

私の友人に“秘密基地”が大好きで、三十路なのに“青春時代”を生きていて、
とても背が高くて、声が大きくて、体中で笑って、落ち着きがなくて、
“P”の文字が書かれている赤い帽子をかぶった人がいる。
それが“P”chan。“はるん”で腕を振るってくれたビタミンの料理人。

沖縄にきて、“P”chanと同じようなことを言う人に出会った。
その人はPちゃんとは対照的に、声は小さく、一見は落ち着いた雰囲気の人。
けれど、負けないくらい子供の目をして、静かに興奮した声で、
“秘密基地”の話や、今も“青春時代”だと語ってくれる。
それが匠斎庵の所長の仲村渠さん。


こんな人が、自分の周りに二人もいることがおもしろくてしょうがなくて、
お互いに、お互いの話をした。
「あなたと同じようなことを言う人が、私の周りにはいるんです。」

“P”chanは沖縄が大好きで、年に3回くらいは来ている。
いつもは離島で釣りをしたり、のんびりしたり。
今回は、匠斎庵の仲村渠さんに会うために来た。

仲村渠さんと、“P”chanと、私と、三人で食事をした。
二人はすぐに意見が合い、ものづくりとは、建築とは、アーティストとは、と
うなずき合いながらこっちに2倍のボリュームで語ってくる。
今日は二人が出会う会なのに、「はじめまして」をすぐに通り越して、
意気投合して、2倍以上のパワーになっている。

いつのまにか、二人の間では、何か楽しいことをやる話になっていた。
そして、あれよあれよと言う間に“はるん”が決まっていた。
けれど、後になって二人とも合わせたようにこう言った。
「“はるん”は君が企画したんだからな」


“はるん”は、みなさんのおかげでとても楽しく終えることができました。
仲村渠さんは楽しすぎて、飲みすぎて、2次会は断念。
“P”chanと与座くんは男二人で、ロウソクの明かりで、海を見ながら朝まで飲んで。
ホタルデッキの家の家主さんと、まもなく完成する名護の家?の家主さんも、
結局明け方まで飲んでいたとか。



仲村渠さんと“P”chanが出会ったことから、たくさんの楽しい事が生まれた。
新しい人と人とのつながりも生まれた。
プラスの循環がさらにプラスを生み、新しいことがつぎつぎに生まれていった。

家主さんや、友人、知人を含めて、
この何とも言えない心地よさを理解してくれる人たちが、
匠斎庵には集まってきているように感じます。


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02 メールから

“はるん”を終えてから半月ほどした頃、
ある人から私のところにメールが来ました。

“はるん”の報告を通じて、匠斎庵のHPを見てくれたそうです。
彼は料理人”P”chanの古くからの友人で、

卸売市場で野菜を売る仕事をしているそうです。
流通に関わりながら、日々食や農のあるべき姿を模索しているなか、
匠斎庵の建築に対するコンセプトに共感する部分を見出してくれたそうです。
「人が結ってものを興すものづくりの姿勢と、恵を尊ぶ謙虚な業の生み出し方」
「食と農もまたこういう風であるべきではないか」と。


突然のメールから、彼とはその後何度かメールを交わしました。
お互いの沖縄との出会いの話から、いま、ものづくりへの思い、沖縄人の話、など。
専門として関わる分野は異なっていてもお互いに共通していたのは、
ものづくりのあるべき自然な姿と目の前にある現実とのギャップに
疑問を感じていること。
そして、そのものづくりの自然な姿を現実になしている
匠斎庵に惹きつけられたことでした。

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これからの“食”のありかた。
イメージは沖縄の空気。
それは、
天の恵みからデザインしてゆく農業。
その土地の風土から様々なアイデア学び
恵みを存分に吸収できるものを栽培する。
顔のある(個性のある)食の創出こそが
これから消費者に選ばれるものではないのか―。

天を尊び、恵みと人のつながりを表現した農業ならば
木も山も海も人も傷つけることはないし、
大量画一生産で作られた“金太郎飴”的野菜より
一味もふた味もあって
飽和した感のある食に新たな風穴を開け、
さらには不信感の雲に覆われた食品業界を
信頼の光でもう一度照らす存在になるのではないか、
最近、そんな風に考えたりするようになったのです。

匠斎庵のHPをみて
人が結って興す、ものづくりの姿勢と、
恵みを尊ぶ謙虚な業の生み出し方は
まさに私が思い描いていた
農業のあり方と感動的なくらい重なる部分が多かったのです。
頂いたメールより引用)
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彼が共感し、感動してくれた匠斎庵の考え方、その大きなもとにあるのは、
自然を尊び、祖先を敬う姿にあらわれる、
沖縄に古くから残る精神ではないかと思います。
私は今、大学院を休学して沖縄に来ています。
私が沖縄に来た理由の1つは、文献などで知り得たその沖縄に古くから残る精神は、
現在どこまで実生活と接点を持っているのか。
それを確かめたかったからです。
建築に置き換えて言えば、
沖縄建築の伝統工法のよさを、いかにして現代の建築に生かしているのか。
それを求めている中で、匠斎庵に出会うことができました。
きっかけは違っていますが、メールをくれた方と私は
同じものを匠斎庵に見つけて来たのだと思います。
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03 最後に

沖縄で生活をして一年近くなりました。
島の景色は、現在も日々変わっています。
しかし、人々の中には沖縄らしさが変わらずに残っているように思います。
沖縄で知り合った人たちと言葉を交わす中、
ふと“うちなーんちゅ”を垣間見たときの安堵感。
また沖縄にくるときにも、変わらずにあって欲しいと願います。

建築においても、外観や使用する素材は変わったとしても、
快適に住まう工夫は忘れてはならないと思います。
現状では、涼しく住まう工夫と、沖縄らしさに対する解答、
そして限られた手に入る素材、の中で
産業全体として、悩みながら模索している感があるように受け取れます。

沖縄で快適に住まうには、どのような住宅がよいのか。
家を建てる家主さんの意識や、関係資材の流通形態にまで及んで、
変えていくべきところがあるように
感じます。



7月いっぱいで私は匠斎庵での研修を終え、秋には大学院に戻ります。
沖縄に来て、匠斎庵に来て、仲村渠さんに出会えて、
私が知りたかったこと以外でも得られたものがありました。
それは、ものづくりの強さを信じられるようになったことです。

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産業や経済を支配するものは、
法制度や歴史的背景まで含めたいくつもの要素が関与し、
今、一人がものをつくることはとても小さくて、無力かもしれません。
だけど、私は、ものづくりの強さも信じています。
込めた思いの分だけ生命力をもって、表現されかたちになったものたち、
ものづくりの一番あるべき姿で、力強く表現されたものたちは
その行為は無力に見えたとしても、大きな力をもった“もの”として
世に出て行くのではないでしょうか。

市場経済の中で、利益のためにただものをつくり、さばく。
そんなものづくり
とは程遠い、
ものづくりのあるべき姿なのではないかと思います。
(送信したメールより一部引用)
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ものづくりの強さを信じられるようになったのは、
1つには、匠斎庵のものづくりに対する姿勢と、
作られる建築、空間と、そこから生まれる人と人のつながりを見たこと。
そして、ものづくりに対する姿勢が現実を伴わない美学に終わることなく、
信念を貫き、社会の歯車の1つとして機能している様子をみたこと。
後者は、とくに沖縄で初めて覚えた感動でした。

沖縄では、建築に限らずものづくりが生活から遠くない位置にあると感じます。
人々が求めるものがあり、それをつくる人がいる。
つくったものがよければ、それに対して応えがある。
それが、新たに見つけた沖縄のよさの1つです。

いいものが世に出たときに、それに応えが返ってくる。
そんなスケールの島だからこそ、
沖縄で暮らすために「いい住宅」をつくり、その考え方が人に伝われば、
流通や人々の意識を巻き込んで大きく変わっていくように思います。
表現することで流れを変えていく。
そんなものづくりのありようを、これからの沖縄に期待します。

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